ニッチな番組をつくったジャーナリストが筆を執る

『ハイパーハードボイルドグルメリポート』は、テレビ東京で数年前から不定期で放送されるドキュメンタリー番組。でもあり、2020年には書籍化、2021年にはポッドキャストとしても配信されるようになっています。今回はその書籍のお話になりますが、YouTubePodcastもめちゃめちゃ面白いのでこの機にリンクしておきます。

書籍・TV・ラジオなど多岐にわたるプラットフォームで配信されるこのハイパーハードボイルドグルメリポート、一体どんなテーマのドキュメンタリーなのかという説明に、書籍のまえがきが素晴らしいので、そこから著者の言葉を借ります。

「ヤバい世界のヤバい奴らは何食ってんだ?」
番組の掲げるは旗印はたった一つ。普通は踏み込めないようなヤバい世界に突っ込んで、そこに生きる人々の飯を撮りに行く。いかにも粗暴。いかにも俗悪。
しかし、実際に見たヤバい奴らの食卓は、ヤバいくらいの美しさに満ちていた。
食卓には、文化、宗教、経済、地理、気候、生い立ち、性格その他人間を取り巻く有象無象が現れる。食は多種多様な「生活」の写し鏡だ。それなのに、食い物を口に放り込んだらそこには万国共通の表情がある。至福。安堵。希望。時に絶望。
善悪を越えて、人は食う。(中略)だから「飯」は世界を見せてくれる。

このテーマのもと、筆者は、内戦の爪痕が深く残るリベリア、マフィアが裏社会を司る台湾、シベリアの凍てつく山奥に住まう宗教集団、そして地獄絵図のような汚染にまみれたケニアのゴミ山へ突っ込み、文字通り命を懸けて、そこに住む人々が口に運ぶものを記録します。


印象に残った部分

著者の表現力に、異国の世界へ引き込まれる

読み始めてすぐに、著者のあまりに鋭く豊かな表現力に驚愕しました。別の宇宙かと思うほど、私の知る世界からかけ離れた環境の描写。なのに読み進めると、あたかも自分がその場所にいるかのように、その町の色、空気の温かさ・冷たさ、匂い(臭い)、周りからの視線、緊張感、疲労、恐怖、、、そんな生々しい感覚をありありと感じました。

生身の人間の湿っぽさと温もり

「廃墟に暮らす元少年兵」「警察も寄り付かない無法地帯の墓場に暮らす娼婦」「ゴミを漁って生計を立てる少年」、、、筆者のどんな出会いも、初めはそんな抽象的なレッテルのようなものから始まります。人間は誰でも本能的に、与えられた抽象情報をもとに相手に関して様々な推測をするものですが、この本に記録された出会いの抽象情報はあまりにぶっ飛んでいて「きっと攻撃的なんじゃないか」「救いようのないほど憂鬱な生活なんじゃないか」そんなドラマチックな予感が、呼んでもないのに次々浮かび上がってきます。

しかし、筆者が取材相手と1日を過ごし、彼らがどうやってお金を稼いで、生活の中でどんなことを考えていて、1日の終わりに何を食べるのかについて読んだあとに印象に残るのは、厳しい逆境の中を、強く、熱く生き続ける生身の人間。苦しみに悶える瞬間もあれば、幸せを感じる瞬間ももちろんある。希望、落胆、不安、羨望、、、平凡な生活を送る私達が感じる感情の全てを、彼らも日々感じて生きています。自らの状況に折り合いをつけた者も、そしてつけられない者も。

ジャーナリストであるということ

この本は「みんなが食べてるごはん」という小さいような出発点から始まって、巨大なスケールの問いにも直面します。それは、倫理だったり(生きていくための食べ物を買うための窃盗は、悪?)、宗教だったり(カルトと宗教の境界線って?そもそも宗教とは??)。その中でも、本題とは違えども、終始強く響き渡るのは、「ジャーナリズムの役割とは?」というテーマな気がしました。ここで、あとがきからの引用。(私はまえがき・あとがきが好きらしいです笑)

僕はカメラを通して人と出会う。その人生を覗き見るために。けれどそのカメラという装置は単なる媒介にすぎず、関係が深まれば間も無く用を失って、それからは剥き出しの人間同士が向かい合うことになる。(中略)僕と相手とふたりきりの世界に、メディアの義務やテレビの役割なんて概念が首を突っ込んでくる余地なんて、1ミリたりとも存在していない。
(中略)
取材は暴力である。その前提を忘れてはいけない。カメラは銃であり、ペンはナイフである。幼稚に振り回せば簡単に人を傷つける。
カメラは万引きの瞬間を簡単に撮ることができるし、ペンは権力の不正を暴くことができる。それがジャーナリズムの使命だと誰もが言うだろう。それはそうだ。
けれど、万引き犯も、権力者も、人間である。僕らと同じ、人間である。
取材活動がどれだけ社会正義に則していようと、それが誰かの人生をねじ曲げるのであれば、それは暴力だと僕は思っている。どれだけの人を救おうが、その正しさは取材活動の免罪符にはなるけれど、暴力であることから逃してはくれない。

取材とは、相手の空間に部外者が土足で侵入し記録媒体を向けること。それは暴力。それなのに取材を続ける意味とは?それでも、著者の記録では、取材相手との関係性が深まったあとには、取材相手は著者に「きてくれてよかった」「また会いにきてね」と声をかけ、笑顔をこぼします。(もちろん誰でもこうなのではなく、著者の真摯な姿勢を感じとってのことだと思います。)著者は最後に、「僕たちには聞きたい言葉がある。彼らには話したい言葉がある。ドキュメントを撮るとは、そういうことなのだと僕は思う。」と述べています。もちろん、「ジャーナリズムとは?」なんていうでっかい問いに答えなんてないけれど、それを考えるための最高の素材が、この本には詰まっていると感じました。


終わりに

この本は、「食」ひいては「生」を改めて見つめ直す機会を与えてくれました。食べることを業務的な処理のように位置付ける人もいれば、厳しい環境で丸一日働いてやっと漕ぎ着けた一食を食べる人にとって、食べることは命そのものでしょう。どれが正しいとか何が悪いではなくて、こうやって「食べること」を見つめ直すことは、自分と世界の繋がりを見つめる新たな視点を与えてくれる材料となる気がします。