利休にたずねよ
続く歴史小説愛
アメリカはすっかりクリスマス感たっぷりの季節となってきました。私の住む地域は寒さが厳しいですが、相変わらず本に身をうずめたり、あったまる料理をしたり、スケッチの勉強をしてみたりと、割と楽しく過ごしています。
私は恐縮ながら読書に関しては割とにわか勢(?)で、趣味で本を読み始めたのもここ3年くらいです。そんなわけで、自分がどんなジャンルの本が好きかについてさえ、まだ日々学んでいるところなのですが、ビギナーなりに最近気づいたのは、歴史小説って、おもしろい!ということ。(笑)私が歴史を勉強するのが好きになり始めたのも、読書を始めたのと同じ頃だったのですが、この最高ジャンルの存在に気づくのにこんなに長くかかるとは、、、歴史大好きで小説も大好きなのに、何故か歴史は自分の中で「ノンフィクション枠」みたいなものに入っていたみたいです。以前ここにも書いた「訴訟王エジソンの標的」という本を読んで、改めて歴史小説のハズレなさに気付かされました!
そこで手に取ったのが今回の、山本兼一さん著「利休にたずねよ」。ちょっと前に直木賞を受賞したので有名な作品です。
歴史上の人物「千利休」の、人間としての姿
安土桃山から戦国の時代にかけて、茶の湯に人生を捧げた茶人、千利休。正直私の中でその人物像なるものは、存在しないに等しいレベルでした。「千利休」=「茶の湯」みたいな、試験に使うだけの情報を呪文のように暗記していただけ。しかしこの読書体験を通して「利休」という人と何日間かを一緒に過ごしてみて、人間としての利休の存在が自分の中に浮かび上がり、利休自身だけでなく、その当時の時代背景への認識の解像度が一気に上がったように感じました。
中でも色濃く印象に残ったのが、利休の、徹底的な美への執着。それは強迫観念のような、抗うことのできない神への信仰のような、恐ろしささえ覚えるようなものでした。私の今までの呪文のような歴史の理解では、茶の湯といえばなんとなく、清らかで、和やかで、温かいようなイメージ。後世に受け継がれる茶の湯を確立させた利休も、気づかずそのようなイメージと連想させてしまっていたようです。蓋を開けてみれば、利休の人間像は、(小説なので脚色があるのは承知ですが)とにかく鋭く、頑固で、自信に満ち溢れ、凡人には理解できない暗く神秘的なエネルギーを発するような存在。そんな人間くささが、読んでいてとても面白かったです。
日本の昔の美の感覚が垣間見られる感動
この小説を読んでいると、利休の追求する美意識のようなものがストーリーを通してひしひしと感じられます。そんな中で、当時の「美」に対する感覚が今とどれだけ違うものであったかも、個人的には面白いポイントでした。読んでいて連想したのは、 九鬼周造さんの著書「いきの構造」で解説されていた『いき』の定義。この本の中で著者は、日本固有の美的感覚「いき」という概念の構造について、「媚態(色気)」「意気(意気地)」そして「潔い諦め」の三つの要素があると述べています。詳しい解説は私のような人が語れるものではないので割愛しますが、小説に描かれる利休の追い求めた茶の湯の美しさには、このコンセプトとかなり通ずるところがあると感じました。生命力を感じる艶やかさ(色気)と、気品や思い切った気概(意気)のエネルギー、そして皮肉にも(?)垢抜けて執着を感じさせない、あざとくない美しさ。そんな美しさを利休は追求していたように読まれました。