もうすぐ世界が滅びる。そんな恐ろしい状況下では、法も礼儀も世間体も脆く崩れ、飲食料や生活用品の窃盗のし合い、そして時に殺し合いが繰り広げられる。しかし、凪良ゆう著「滅びの前のシャングリラ」(中央公論新社、2020)では、恐ろしい物語が描かれているのかというと、そうではない。

凪良ゆうの描く世界の終わりには、殺し・騙し・窃盗・飢えなどももちろん登場する。しかし、それよりも遥かに力を持って、鮮やかに飛び出してくるのは、世界が終わるからこそ見つけることのできた小さな幸せの数々である。破滅へのレールを止めることなく走り続ける世界は、まるで放火された火薬倉庫のように、これまでにないほど色とりどりの美しい火花を散らしながら破滅へと転がり進んでゆく。

「滅びの前のシャングリラ」の中でまず否応なしに突きつけられるのが、厳しい状況下における犠牲の必然性である。「自分や自分の愛する人の命を守るためなら、他の人を犠牲にするか?」それは、必要に迫られないならば、できれば考えたくさえないような問いである。シングルマザーとして苦境を乗り越えてきた元ヤンの母、江那静香は、我が子を眺めこう思う。

あたしは絶対に子供たちを飢えさせないと誓っていた。世界がこうなる前から、そう決めて生きてきた。けれど我が子を守りたいと願うほど、それ以外を切り捨てる選択を強いられる。

今までの世界では、子供を飢えさせないためには、自分が身を削って働けばよかった。しかし無秩序の世界では、我が子を守ることは、他の子供を犠牲にすることにもなりかねないのだ。究極の状況下では、揺るぎないと思っていた倫理観も、法と同じように力無く散ってゆく。しかし、それは悲しいだけのことなのだろうか。そのような静香の姿を見て、幼馴染の目力信士はこう言う。

身勝手で逞しい、それが愛情の裏の顔ってもんだ。

「身勝手」だけど「逞しい」。愛する人を守るためなら犠牲も厭わないその精神は、善し悪しを抜きにして、人間の心に響くものがあるのは間違いない。真っ裸の愛とでも言おうか、そこには痛々しさこその美しさがある。

世界の終わりという状況下で初めて輝きを放ち始めるのは、むき出しの愛だけではない。静香の息子、江那友樹は、学校ではいつもいじめられっ子だった。いつもクラスメートに笑い物にされたり、使いっぱしられたり、暴力を振るわれたり、気になる女の子の前で恥をかかされたりする日々を、なんとか耐え忍んできていた。しかし彼は、世界が滅びると知ってからは、無秩序の世の中を、なんとか大切な家族と乗り切れるように様々な工夫を凝らす。生存、という大きな課題を前に、今まで学校で感じていたような、社会に組み込まれるために保たざるを得ない体裁のようなものへの圧が取っ払われる。静香が友樹に「怖くないの」と聞くと、友樹はこう答える。

「怖いに決まってるだろう。でもこうなる前の世界より、ぼくはずっと自分が好きなんだ。前の世界は平和だったけど、いつもうっすら死にたいって思ってた。(中略)今は死にたくないって思ってるよ。でもあと十日しかない。悲しいし、怖いし、最悪だけど、それでも、ぼくはちょっといい感じに変われた気がする。あのままの世界だったら、長生きできたかもしれないけど、こんな気持ちは知らないまま死んでたかもって思う」

命が脅かされる世の中では、様々なものが脆く散り去る。しかし、その中でこそ、自分には本当は何が(誰が)大事であったのかが明るみに出される。本当に大切なもの以外は全て洗い流されてしまった裸の世界では、命が危険に晒される代わりに、今までの平和な世界では気がつくことのできなかった幸せが、たくさん落ちているのだろう。